曩祖八幡宮は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰および天神地祇を御祭神としておまつりする飯塚の総鎮守と親しまれております。

本殿と12の摂末社が祀られており、子供誕生の初宮参りや七五三詣り、入試合格・商売繁盛・災難厄除祈願などお社として幅広く信仰されています。

応神天皇(おうじんてんのう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
武内宿禰(たけのうちのすくね)

天神地祇(てんじんちぎ)

御祭神

各種祈願

家内安全
 / 交通安全
 / 入試合格
 / 商売繁盛
 / 事業発展
 / 初宮参り
 / 厄除け
病気平癒
 / 安産
 / 七五三詣り
 / 結婚式
 / 必勝祈願
 / 車祓い

ご由緒

曩祖八幡宮のはじまり

 当宮は紀元八百六十一年(約千百六十年前)に、神功皇后が三韓征伐の帰途、現在の当宮境内地【曩祖の杜】を聖地と選び【天神地祇】を祀り祭典を執り行ったことから始まりました。

 社伝では、その跡に作られたのが当社殿であるといいます。創建年代は不詳ですが、延文4年(1359年)には社殿が建立され、大正十三年に県社に昇格、昭和四十五年この地域では英彦山神宮と当宮の二社が神社本庁の別表神社として列記されており、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰および天神地祇を祀っています。

 当神社にて行う初宮詣りの「子安台」は神功皇后が先の祭典を行った際に息子の【応仁天皇】を壇の上に寝かせた事から、その古事に習い古くから行われてきた曩祖八幡宮独特の神事です。この為、【子安の神社】として子供誕生の【初宮参り】や【七五三詣り】の聖地として多くの方が参拝されます。

 拝殿左に西日本最大級の【関口太鼓】があり、右上には【茜染めの日の丸】が掲げてあります。安政年間に国旗としての【日の丸】が最初に飯塚宿の【樽屋】で筑前茜染めで製作されました。
正面の右側の【曩祖宮】の額の【宫】の字は旧字が使われていますが、曩祖宮が最初にできて境内に八幡宮や他の神社が出来たようです。

「曩祖八幡宮」と「納祖八幡宮」

 約千五百年前頃に奈良に出来た大和朝廷の米倉【屯倉】が穂波と嘉麻に制定され、この時租税がこの場所で納められた為【納所】と言われ、その後納祖または曩祖と変わっていきました。

「いいづか」の名の由来

神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれております。 社伝では、その跡に作られたのが当社であるといいます。創建年代は不詳ですが、延文4年(1359年)には社殿が建立され、大正13年に県社に昇格しました。

曩祖八幡宮の概要

名称
曩祖八幡宮(のうそはちまんぐう)
所在地
福岡県飯塚市宮町2-3
電話番号
0948-22-0511
受付時間
午前9時~午後5時迄
駐車場について
■ 当社駐車場のご利用につきましては、参拝者の方のみ無料でご使用いただけます。その他の用途で駐車場をご利用いただく場合は、有料とさせていただきます。
■ 夜間(18:00以降)の駐車場はご使用いただけません。無断駐車を確認した場合は、直ちに飯塚警察署に通報させて頂きます。
■ 正月三が日は境内駐車場はご利用いただけません。七五三や祭典時など混雑する時期に御祈祷(個人・団体問わず)を受けにお越しの方は、近隣の駐車場をご利用ください。御祈祷を受けた方の駐車料金は1時間の割引券がございますので、駐車券をお持ちのうえ社務所でご提示ください。

曩祖八幡宮の御祭神とは

曩祖八幡宮の歴史

 曩祖八幡宮は、紀元861年(約1165年前)に、神功皇后が現在の当神社境内地である、飯塚市宮町を聖地と選び定め、朝鮮征伐の際に戦捷報告の神事を執り行った事に始まりました。

 約4百年前の元和年間に村人が社殿を造営して以来、村の鎮守様として納祖の杜は人々が集う場所でした。
 長崎街道の飯塚宿に隣接し、明治の初めには大久保利通も参拝してここでの歌会で詠んだ歌も残っており、宿場の商人による絵馬や常夜灯などが数多く奉納されました。
 明治元年に出された「神仏分離令」と明治39年に「神社合祀令」の政策により全国の神社と寺院の存在が大きく変わり、特に明治39年の神社合祀令では1町村1社となったため、多くの神社が納祖宮に合祀されました。
 この激動期に曩祖八幡宮は明治5年に「村社」、大正13年には「県社」になりましたが、昭和26年に定められた「別表に掲げる神社選定に関する件」の通達により曩祖八幡宮が別表神社に加わりました。筑豊地区の別表神社は「英彦山神宮」と「曩祖八幡宮」の2社だけです。
 約二百三十年前の寛政年間に作成された飯塚宿の絵図には八幡宮本殿と楼門、天満宮・祇園宮があり階段は八幡宮と天満宮それに博多往還があった西町側にあり、祇園宮の階段は描かれていませんが、現在の場所に祇園宮が移設改築された時点で階段が出来たと思われます。西町側の階段は大正初期にバルチック艦隊のニコライ二世号の大砲が奉納された折に、境内に運び込むための運搬路として坂道に変わったと思われます。
 明治31年に作成された銅版画には当時の詳細な境内の様子が描かれた非常に貴重な資料です。
 境内の摂末社が現在とは、かなり違っていて、境内の中には大きな樹木は見当たらず、正面階段横の樹齢千年以上と言われた神木の大楠が威容を誇るように描かれています。
 お宮の前の飯塚川には川船が行き来しており、船着き場もありました。前の道路は長崎街道ですが、電柱と電線が描かれています。しかし、この当時はまだ電灯も無かったので電信のための電信柱とそのための架線だと思われます。この時の飯塚郵便局は曩祖八幡宮北側にあり電報も取り扱っていたようです。